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宮城県松島町松島字町内…円通院

震災前取材

三慧殿は二代目藩主忠宗の次男光宗の廟所である。瑞厳寺の西隣の円通院内にある。御霊屋は支倉常長がヨーロッパから伝えた西洋文化の影響が強く、厨子の右扉の内部には日本最古といわれる西洋バラが描かれている。金箔の地に白・赤・緑の三色を用い、材料には緑青やサンゴを使用しているので、永久に変色することはないと云う。技術の粋をつくした伊達家屈指の建築物で国の重要文化財に指定されている。

伊達光宗は、伊達政宗の孫にあたり、仙台藩二代目藩主の忠宗と 池田輝政の息女で徳川秀忠養女振姫との間にその次男として江戸で生まれた。兄の虎千代は亡くなったため、伊達家の嫡男として育てられた。

伊達光宗は文武両道に長じ、性格は剛毅で伊達政宗の再来と言われていた。仙台藩の三代目藩主として期待されていたが、正保3年(1646)、享年19歳で急死した。

この光宗の死は、当初から毒殺説があり、外様大名から名君が出ることを幕府が警戒し恐れ、毒殺されたという説が強いが定かではない。忠宗と振姫の悲しみは深く、この三慧殿を建立した。

時代は徳川家光の時代に入っており、徳川の幕藩体制の下で諸藩の改易が続いており、東北でも最上藩は既に改易され、会津、二本松、三春と改易が続いていた。忠宗は徳川との融和策をとっていたが、外様の大藩として気が抜けない日々だったろうと推測できる。

このような折の光宗の急死であった。その死が幕府による毒殺かどうかは確かめようもないが、この三慧殿のつくりは斬新であり、ある意味では当時の幕府に対して挑戦的とも見える。そこに忠宗の思いがあるのではないかと思われる。

時代が完全に鎖国に入っていたこの時期、また切支丹禁令がくまなく行き渡ったこの時代に、切支丹との噂もある嫡男光宗の廟所に、支倉常長が西洋から持ち帰った洋バラを描き、随所に切支丹に通じるユリを描いている。

その後、忠宗は、側室である櫛笥氏の子、万之助(後の伊達綱宗)を後継とするが、櫛笥氏はその姉が後西天皇の生母であったため、天皇と綱宗は従兄弟の関係になり、重臣の中には「幕府から睨まれる」と危惧していた者もいたという。事実その後忠宗のあとを継いだ綱宗は21歳で強制的に隠居させられ、これが寛文事件へとつながっていった。

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