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宮城県松島町松島

震災前取材

瑞巌寺五大堂の北東に浮かぶ島で、陸地とは全長252mの朱塗りの橋で結ばれている。島内は自然植物公園となっており、絶好の散策路となっている。

しかしこの島には、瑞厳寺が天台宗から臨済宗に変わった時の重い歴史がある。

北条時頼に命じられた三浦小次郎義成は千人の軍兵を率いて延福寺を突然襲い、三千の衆徒を追放し、儀仁和尚を佐渡に流し、経文はすべて経ヶ島で焼いた。宗徒の者の一部は福浦島に逃れた。

宗徒達は普賢堂閣円を中心に北条時頼を呪詛することと決した。当時の呪詛と言うのはたんなる呪い祈るだけではなく、熱烈な信奉者を刺客として送り込むことも意味したと言う。

一同は、島に糧食を運び込み、護摩壇を築き、北条時頼の呪詛を始めた、福浦島の護摩壇のかたわらには、時頼の名と年齢とを記した木札がうず高くつまれている。呪詛の一夜があけるごとに一札を火中に投じて焼き、百枚の木札を焼き終わった日を満願とする。しかし隔絶された島でのこと、厳しい警戒の中糧食を運び入れることもままならなかった。飢えの中、一枚の木札が減るごとに幾人かの宗徒が去っていった。

木札が最後の一枚になったとき、生き残っていたのは普賢堂閣円と一流坊の二人だけだったという。最後まで残ったものも、他はみな飢えにより死んだ。供物はすでに尽きていたが、護摩木だけは、残った一流坊が、疲れた体をひきずって枯れ木を懸命に集めた。死臭の漂う暗闇の中で呪詛の成就を願う二人の修行僧の姿は幽鬼さながらであったという。

最後の木札が火中に投じられた時一流坊は息絶えた。普賢堂閣円も「時頼の身命をたちどころに奪いたまわん事を」と回向し終わるとこれもまた息絶えたと伝える。

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