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宮城県松島町松島字町内

震災前取材

建物は東西に向き京間18畳2室からなり、四方縁をめぐらした簡素明快な建築である。

もともと豊臣秀吉の伏見桃山城にあった茶室を伊達政宗がもらい受けて江戸の藩邸に移してあったものを二代目伊達忠宗が納涼観月の亭にと、海路松島へ一木一石変えずに移築したものといわれている。

「観瀾」とは、さざ波を観るという意味で、観瀾亭と名付けたのは五代藩主吉村。

床の間の張付絵や襖絵には、金地に槍や草花を描いた極彩絵があり、狩野派系統の絵師の筆といわれている。

藩主の納涼、観月の亭として「月見御殿」とも呼ばれたが、公式な記録によると藩主、姫君、側室等の松島遊覧、幕府巡見使等の諸国巡回の際の宿泊及び接待用の施設となる「御仮屋」として利用されていた。

江戸時代の終わりまでこの敷地内には藩主などに随行する侍の部屋、台所、馬屋など11棟あまりの建物が存在しており、観瀾亭はその中で一部分が現存しているもので我国でも貴重な建物である。