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宮城県松島町松島…雄島

震災前取材

頼賢の碑
頼賢の碑

雄島の座禅堂から更に南に行くと、国の重要文化財「頼賢の碑」を納めた六角形の覆堂が見えてくる。「頼賢の碑」の碑文によれば、頼賢は、観鏡房と号し、15歳の時に出家して長崎成福寺で修行。42歳で円福寺(瑞巌寺の前身)を訪れて第4代無隠円範(覚雄禅師)に弟子入りした。その後、松島を離れるが、再度来松し第6代空巌慧(覚満禅師)に参禅し、師の推薦により妙覚庵の庵主となった。

弘安8年(1285年)に入庵して以来、22年間、島を出ることなくひたすら法華経を読誦し、見仏上人の再来と仰がれた。頼賢没後の徳治2年(1307年)、弟子の匡心や孤雲ら30名が、師の供養と頌徳のため、中国・元の使者として在日した鎌倉建長寺住持一山一寧(寧一山)に撰文を請い、雄島の南端に「頼賢の碑」を建立した。

碑の大きさは、高さ約3m、幅約1~1.3m(上部が狭い)、厚さ約0.2mで、2つの龍の彫り物で上下に仕切られている。上部は、真ん中に梵字があって、右に「奥州雄島妙覚菴」、左に「頼賢菴主行實銘 並序」の文字を刻み、下部に、「巨福山建長禅寺住山唐僧一山一寧撰」の文字と撰文が刻まれている。