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宮城県大郷町東成田北沢山

震災前取材

支倉常長の墓については諸説あり、仙台市北山光明寺、柴田郡川崎町支倉などにもあり、この地もその内の一つである。 常長は、慶長18年(1613)秋、藩主伊達政宗の命により、遠くスペイン・ローマへ通商交渉のため牡鹿郡月の浦を出港し、メキシコを経由、スペインに到着した。スペイン国王とローマ法王に謁見し、伊達政宗親書を呈し、ローマ法王より、伊達政宗宛の親書を託される。七年の歳月をついやして元和6年(1620)、フィリピンを経て大阪に帰国した。しかし当時の日本ではすでにキリスト教は禁止され、幕府は以下の条件を付して帰国許可を与えた。

  • ※ 藩籍を抜くこと。
  • ※ 宣教をしないこと。
  • ※ 隠棲をすること。

時既に鎖国と切支丹弾圧が全国に強行されていた。仙台藩は元和8年(1622)、常長死亡の報告を幕府に提出したが、長途の困難な使命を果たした功臣常長を人目に触れないこの山林の中に隠し、静かな余生を送らせた と伝えられる。一大海外渡航という偉業を成し遂げた常長だったが、当時の政治状況の中で、その偉業は封殺されてしまった。 帰朝後30年、承応3年(1664)2月、常長は84歳の天寿を全うしこの地に没した。以来、支倉別家で常長の義弟新右衛門家中の者が、代々堅く世に秘して墓をまもってきたと伝える。 碑面の刻文--梅安清公禅定門 承応三年二月十七日 支倉氏