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宮城県大和町吉岡字町裏

震災前取材

 

この八幡社は、奥州信夫の領主の飯坂氏の氏神であったが、後に宮城郡国分松森に移された。

その後、伊達政宗の三男の伊達宗清が、政宗の側室だった飯坂の局の願いにより飯坂氏の跡を継ぎ、松森から下草に入り、さらに吉岡に移るにあたり元和4年(1618)今の地に遷宮した。その後飯坂氏は断絶したが、文化14年(1817)、仙台藩主伊達斉宗が参詣し「黒川総鎮守八幡宮」の神額を掲げて郡内の総鎮守とした。嘉永3年(1850)には、藩主伊達慶邦が先祖伝来の軍旗を奉納するなど、藩主をはじめ一般庶民の崇敬を集めた。

 

・島田あめ祭り

この神社の例大祭で、「島田あめ祭り」があるが、これには次のような話が伝えられている。

ある年の暮れ、吉岡八幡神社の神主がたまたま道で見かけた高島田姿の美しい花嫁に魂をうばわれ、恋慕の情に耐えがたく、病の床に伏してしまった。そこで村人は心配して寄合い、「島田髷形」の飴を白酒屋に造らせて神社に奉納し、神主の快気を祈ることにした。すると、たちまちのうちに鬱病は快気した。そこで神主は、「縁むすび」の例祭として神事を催し、これが飴祭りのはじまりだという。