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宮城県東松島市赤井字星場

震災前取材

 

大槻俊斉は文化元年(1804)、現在の東松島市赤井に生まれた。18歳のときに江戸に出て刻苦勉励し、その後3年間、長崎でオランダ医学を学んだ。37歳のときに江戸にもどり開業した。種痘の実施、西洋医学所(初代頭取)の開設等我が国の近代医学の基礎を築いた。

種痘は1796年にジェンナーが発明した。日本では文政6年(1823)、出島のオランダ商館医師のシーボルトが持ち込んだ。しかし日本での種痘はことごとく失敗した。日本までの20日余に及ぶ長い航海で痘苗が腐敗するのである。

そこで蘭方医達は痘漿ではなく痘痂(痘瘡牛の皮のかさぶた)を用いることを考え、遂に種痘を成功させた。

大槻俊斉らは、安政5年(1858)神田お玉ヶ池に種痘普及のための機関の種痘所を構え、幕府直轄の漢方の「医学館」に対抗し、蘭方進出の拠点にした。当時は天然痘が流行すると、死を待つか、無惨な痘瘡に生涯苦しむかしかなかった。この種痘の普及は日本に西洋医学を大きく広げることになった。

幕府はこの種痘所を直轄とし、「医学所」と改称し、大槻俊斉が初代の頭取となった。これから明治に至るまで、漢方の医学館と、蘭方の医学所とが幕府公認として互に、明治に至るまでしのぎを削ることになったのである。この医学所が東京大学医学部の前進となる