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宮城県東松島市小野門前

震災前取材

功岳寺は、伊達家重臣の伊東氏の菩提寺である。

伊東氏は奥州安積郡にあったが、伊東重信は、伊達晴宗、輝宗、政宗に仕え、知勇にすぐれ、人取橋の戦いで戦功を挙げた。しかし、天正16年(1588)、郡山対陣で、政宗の身代わりとなり壮烈な戦死を遂げた。重信の長男の重綱も多くの戦功を挙げ、慶長8年(1603)、伊達政宗が仙台に移ると、この地に所領を得て来住した。

寛文3年(1663)、重綱の養嗣子の伊東重義は、仙台藩の家老職についたが、この当時、幼君亀千代(後の四代藩主伊達綱村)の後見人である伊達兵部宗勝(伊達政宗九男)と田村右京宗良(伊達忠宗三男)と伊達安芸宗重ら伊達氏一門とが対立しており、伊東重義はこれらに協力一致を求めた。

しかし、寛文8年(1668)、伊東氏の分家の七十郎重孝が伊達兵部の専横を憎み、これを討とうとしたが果たせず捕縛され、仙台川内で斬首された。これにより、伊東一族は流罪、切腹、追放等処分された。

寛文11年(1671)、江戸の酒井屋敷での原田甲斐の刃傷事件で、11年間にわたる伊達騒動が終結し、事件落着後の延宝3年(1675)、伊東家代々の忠誠が認められ、伊東家の家名は再興され、伊達家着座に復した。