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宮城県東松島市小野門前…功岳寺

震災前取材

 

この供養碑は、天保の大飢饉による死者を供養するために、天保8年(1837)、小野の人々によって造立されたもので、もと鳴瀬川の舟渡場にあったものを、鳴瀬川の改修工事によりこの地に移された。

天保4年(1833)から天保7年(1836)にかけて、東北地方を中心に飢饉が襲った。特に天保4年の気候は不順で、霖雨、寒冷の天候が続き、天保7年に至って、飢饉から疫病が蔓延し、伊達領内だけで約3万人もの死者が出た。この飢饉では米の値段が急騰し、各地で一揆や打ちこわしが頻発し、大塩平八郎の乱の原因にもなった。

この供養塔は、死者の霊を供養すると同時に、このときの致命的な物価の急騰を刻んでおり、子孫に備荒貯蓄を戒めている。これによると、当時の米の値段は通常1升につき38文から40文であったのが、天保8年には、420文ととてつもなく高騰したことがわかる。

飢饉の供養碑は数多くあるが、主食の物価を刻んだ飢饉石文はめずらしく、貴重な石文である。