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宮城県多賀城市高崎一丁目

震災前取材

陸奥国の国府だった多賀城の南東約1kmにあるこの寺院跡は、現在は寺院はなく史跡公園になっている。

この寺院は古代に建設されたものだが、当時の文献にも記載はなく、本来の名称などはわからないが、多賀城と密接に関わっていたと考えられる。大正11年(1922)に多賀城跡が史跡指定されるにあたり、その伽藍配置、出土遺物の特徴などから多賀城に付属するものであるとされ、「多賀城跡附寺跡」という名称で史跡に指定された。創建は多賀城と同じ時期(8世紀初頭)とされ、みちのく最古で 最大の寺院だったのではないかと想像できる。

調査の結果、東に塔、西に東を向いた金堂があり、両者の北には講堂があり、南には中門があった。中門からは左右に築地が延び、塔と金堂を囲んで講堂の左右に取り付いている。講堂の北側には大房と小子房からなる僧房があり、僧房の東西には各々倉が設けられている。築地の北東及び北西角の北側には経蔵、鐘楼が配置されている。

このような伽藍配置は、九州大宰府の附属寺院である観世音寺と類似している。