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宮城県栗原市金成大原木袖山

震災前取材

喜泉院の裏山は、源義経の四天王の一人の鈴木三郎重家の居館と伝えられる鈴木館跡で、喜泉院は、重家の妻の亀世御前が開いたと伝えられている。

鈴木三郎重家は文治5年(1189)、平泉の藤原泰衡が高館の義経を攻めた時に、30歳の若さで壮烈な討ち死にを遂げた。遠く三河国本城村より二子を連れてこの地に来ていた重家の妻の亀世御前は、重家が討ち死にした報せをうけると、黒髪を断ち切り、25歳の花と香る若妻の姿から尼僧となり、その名を鈴光尼と改めて、館の傍らに尼寺を建立し、夫の冥福を祈ったと云う。

鈴光尼は、大変庭を愛し、紀州熊野山より取り寄せたという路地石二個が、今でも庭の池畔に残っている。鈴光尼が庭を愛し、泉水をつくり庭石を配したところから、喜泉院の名が生まれたという。また、今でもこの山を尼ヶ森と称し、山頂には鈴光尼の墓と伝えられる古塚がある。