宮城県多賀城市八幡二丁目

 

別名:天童神社

多賀城市八幡にある天童神社は、別名喜太郎神社とも呼ばれている。ここには次のような伝承がある。

初代天童城主里見頼直(よりなお、天童氏の祖)の家来で喜太郎という足軽が殿様のおともをして京都に行ったとき、途中の福島で左近という旅人と知りあいになった。お互いにうまが合い、すっかり意気投合し、愉快に旅を続けていた。

京都も近くなったある日のこと、左近は、「京都の伏見稲荷に参籠し、免状と如意宝珠をいただき、方便の力で変幻自在の秘術を身につけるのだ」と、旅の目的を語った。この話を聞いて、喜太郎も、自分も秘術を身につけようと、心に決めた。京都での用事を無事にすませ帰国することになったとき、殿様に、左近のことを話し、自分も修得したいので許して欲しいと願い出た。

翌日、2人そろって伏見稲荷に出かけ、社前にぬかずき、願いを心のなかで念じていると、衣冠束帯に正装した白髪の老人が現れたので、こもごもご願いの筋をのべた。 熱意のこもった2人の話しを聞き終わった老人は慈愛の目でうなずき、厳しい修業の終わった日、見事に免状と如意宝珠をいただくことができた。

山形の天童に帰った喜太郎は早速このことを殿様に話すと、殿様は非常に感心し、「以後わが天童城の守護神にしよう」と言われ、倉津川の狐崎に神社を建て万年堂と命名し、喜太郎は生神とされた。

九代城主頼澄(よりずみ)のとき、山形城主最上義光(もがみよしあき)との仲がこじれ、とうとう戦になった。戦は天童側に不利に展開し、天正12年(1584)遂に落城し、頼澄は重臣たちをともなって、関山峠をこえ宮城の国分氏を頼って落ちのびることにした。しかし、関山峠にかかるころ日はとっぷり暮れ、一寸先も見えぬ暗やみに大変困った。

頼澄が心の中で一心に喜太郎稲荷を祈っていると、突然喜太郎稲荷が現れ火をとも して道案内をしてくれた。おかげで一行は、無事愛子(あやし)に落ちのびることができた。

頼澄は、その後伊達政宗に仕え仙台の片平丁に上屋敷、多賀城の八幡に下屋敷を拝領するようになり、姓も里見から天童とかえた。 そして、慶長のころ喜太郎神社を山形天童から勧請したといわれている。

コメントを残す

メールアドレスが公開されることはありません。 * が付いている欄は必須項目です