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宮城県塩竃市玉川三丁目

震災前取材

今もこの伝説の石は、地域の方々によって大事に祀られている。

この場所は、多賀城国府東門から古代市場を抜けて、塩釜の港に抜ける東海道が通っていたと思われる。

昔、この地に父母と娘の三人家族が住んでいた。父親は信仰心があつく、正直者の家族で、村人たちからの信望もあつかった。多賀城の政庁が間もなく完成しようとした時、人柱を立てて、永久の守りにすることになった。しかしもちろん、誰も自分から人柱に立とうとする者はいなかった。そこで、「失って惜しい者を人柱にすれば、ご利益もある」ということで、この信望のあつかった父親に白羽の矢が立った。

親子は嘆き悲しみ、母親は自分が身代わりになると言い、娘は役人に取り消してもらうことを頼もうとしたが、父親は、「別の者が人柱になれば、また別の悲しみが生まれる」と考え、人柱になることを決めた。

その当日、父親は白装束に着替え多賀城に向かった。母と娘はその父を見送り、石の上で泣き悲しんだ。村人が声をかけても、次の日になっても母と娘は泣くばかりだった。何日かたって、二人の泣き声が止んだので、村人が様子を見に行くと、嘆きのあまり立ったまま冷たくなっていた。

母子が立っていたところには足跡がはっきりと残り、今でもその足跡のところだけは苔がはえず、ときどき母子の泣き声が聞こえるという。