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宮城県塩竃市旭町…塩竃市役所敷地

震災前取材

塩竃港は奈良時代から太平洋沿岸の重要な地位を占めていた。藩政時代、四代藩主伊達綱村は、お堀払人夫という浚渫費を年々下付けし、船舶の誘致奨励につとめ、塩竃は港湾都市として発展してきた。

しかし、明治維新で廃藩置県となり、御堀払人夫が廃止となり港が埋もれ、塩竈港は日々荒廃していった。このため、塩竈では伊達綱村の号にちなんだ「肯山講」が組織され、航路の浚渫と海面の埋め立て工事を起こすため有志寄付金6千円を募り、労働奉仕を動員し、明治15年(1882)から丸3年以上を費やして、今の仙石線本塩釜付近の埋め立て5100坪、南北300間の築堤を竣工した。当時の6千円と言えば塩竃村周辺4カ村の税額の約5年分に相当するものだった。

明治17年(1884)に、当時68万円の大金を投じて設営した日本初の洋式の港である野蒜港は、台風により突堤を破壊され、財政的な理由もありその築港は中途で打ち切られた。

明治20年(1887)に塩竈ー仙台間を結ぶ鉄道・塩釜線が開通すると、塩竈は物資の集散地として、その重要度は高まり、野蒜築港の失敗後、女川、松島に築港建設を検討したが、明治30年代に入り塩釜築港が推進されることとなる。

明治40年(1907)には、塩釜港は第二種重要港湾の指定を受ける。翌41年には三陸汽船株式会社ができて、塩竈を起点とした三陸方面への旅客・物資の輸送航路が開かれた。さらにその後の築港工事の進展や、岸壁までの臨港線の完成、新漁港と1万トン岸壁の修築、大型岸壁の完成による大型船の入港などが続き、昭和30年代からは近代港湾都市へと変わって行った。