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宮城県塩竃市浦戸石浜字河岸

震災前取材

浦戸の石浜は今はひっそりした漁港だが、かつて寛文の海運時代より千石船の集会地であった。塩竃港の外港の役割を持っていたようで、江戸時代から明治にかけて、当時の大型船が出入りし賑わっていた。

戊辰戦争の折の明治元年(1868)8月、榎本武揚や土方歳三ら、3000人の将兵の乗る幕府艦隊は東名浜に到着し、奥羽越列藩同盟の盟主的な立場にあった仙台藩に立ち寄った。艦隊旗艦の開陽は、仙台藩宮城丸に曳かれ湾内深く進航し、回天とともに石浜水道に投錨した。

浦役人の長南氏に各艦の修理についての協力の命が降り、各島の肝入りが集められその分担が定められた。石浜造船所には数十名の船大工がいたが、塩竈、石巻、気仙沼は勿論南部藩や岩代藩からも応援を募り、総勢200人前後の職人が昼夜交代で修理が行われたと伝えられている。

補修資材を集め、薪炭などは南部方面から大量に搬入し、食料は寒風沢にある幕府直轄米、仙台藩倉庫より補給し、将兵たちの食生活は満足だったらしい。しかし、飲料水や蒸気機関用の水の調達には苦労したらしく、高瀬船、平田船を改良し、水船(給水船)として数十隻が松島の高城川上流や浜田山峡の流水を一日数回運搬したという。近在からは酒肴、餅、果物、青物野菜、漬物を売るため40~50隻の小舟で艦も島内も大盛況をきわめ、漁師達は毎日獲る魚では足りなかった。

島民総動員の尽力は言語に尽し得ないものがあったことは当然であったろう。浦戸の米倉は武器弾薬庫に使用せられ、将兵達は各戸に割当てられ宿泊し、毎日数回軍艦との連絡のため肝入りから小舟差出の割当があり島民は多忙をきわめたという。

将兵たちは、毎日海浜に出て調練や鉄砲の射撃訓練をし、仙台藩の最新の洋式訓練を積んだ額兵隊も藩の制止を振り切り、仙台の養賢堂を出陣し、この地で訓練を行ったという。しかしこの間、新政府軍は北進し、仙台藩は9月13日降伏恭順を決定した。

 8月26日 榎本武揚艦隊到着
9月 3日 列藩同盟仙台青葉城で榎本武揚は主戦論を展開
9月15日 仙台藩新政府軍に降伏
9月22日 会津藩新政府軍に降伏開城
9月25日 長岡藩新政府軍に降伏
10月10日 盛岡藩新政府軍に降伏

9月15日、仙台藩は降伏と決まったので、榎本武揚らは浦戸諸島に滞留中の軍艦に引揚げた。10月初旬、各艦の修理もほぼ完成、仙台藩の大江丸、鳳凰を合わせ9隻の艦船に3千数百余の将兵を乗せて、10月12日、石浜水道より苦難の航海に出港して行った。仙台藩の星恂太郎率いる額兵隊の多くも脱藩しこれに乗船した。榎本武揚は出港に際し、各戸に相応の謝金や賃金の支払を済ませ艦に引揚げたという。また将兵達は死を覚悟していたらしく、 島民へ家族への手紙や金銭の送り届けを託したという。

翌明治2年(1869)3月、官軍の海軍8隻が榎本艦隊を追って石浜、寒風沢水道に立寄り2日間の碇泊した。その間、浦戸4島より物資を徴発し鶏までもいなくなり、 島は徹底的な経済的打撃を受けた。その外記録、文献なども持去られてしまった。このため、ある旧家では今でも、官軍の被り物に似ている獅子頭を門戸より入れないという。