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宮城県塩竃市浦戸石浜字本石浜

震災前取材

白石広造は江戸時代の弘化元年(1844)に、横浜で英語と航海学を習った。明治4年(1871)この石浜に白石廻漕店を設立し、北海道や三陸の各港との航路を開き、東北を中心に電力会社、銀行、鉄道、金華山漁業など財界で活躍し た。明治維新には勝海舟と対で話が出来た人と伝えられている。

この石浜には二重堤防が築かれていて、千石船が横づけできるようになっており、白石商会の倉庫が連なり直接荷揚げが行なわれていたという。明治の初めごろは塩竈の外港として貨物船の出入りが日増しに盛んになり、船乗りたちが全国から石浜に集まり、石浜は経済文化の中心の体をなしていた。

白石広造は、明治29年(1896)頃政府からの奨励金の交附を受け「ラッコ猟」をはじめた。本石浜の海岸に造船所を設け、洪栄丸(99t)を建造した。この当時では最新鋭船で、続いて開盛丸、権現丸、北辰丸、東長丸と出猟させ、ラッコ船は一時代を画した。

出漁の時には、白石商会所属のラッコ船が石浜港に集結し、オール、フライ旗を揚げ、船主や船長、船員が2百4・5十人揃って神社に参篭、各家々は訪問の人で賑わい、大盤振舞いをした。出港時には、海岸一杯に見送人が出、船が岸を離れると万歳の声と、島内の神社仏閣の鐘が一せいに撞きならされ、ラッコ船上からは銃砲や手吹きラッパで応えながら帆を巻き揚げ出航していった。