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宮城県塩竃市浦戸寒風沢

震災前取材

この寒風沢(さぶさわ)島は、松島湾に浮かぶ島の中では最大の島で、古くから塩竃の外港として栄えていた。江戸時代中期になると、千石船の造船が許されるようになった。それまで仙台藩の主要港だった荒浜は、千石船の港としては規模が小さく、寒風沢が米の積出港として東回り航路の重要な港 になっていった。

幕府は寒風沢に御城米倉を建て、役人を駐屯させて米を管理させ、また江戸や上方からも商人が出張して船の積荷の世話をしていた。城米は荒浜から、200石積みの船で寒風沢まで運ばれ、ここで一度倉に納められる。そして改めて千石船に積み、江戸方面に向けて運ばれた。塩釜港が発展する明治初期まで寒風沢は仙台の主要港として栄え、商店、旅館、役人の屋敷や人夫の住居、さらには遊郭が軒を連ねていた。

また、安政3年(1856)、伊達藩が三浦乾也を招き,日本初の洋式軍艦「開成丸」はこの地で建造され、幕末には砲台も設けられ、重要な拠点であったことを伺わせる。

島内には、これらの歴史を裏付ける、砲台場跡、縛り地蔵、十二支方位石、六地蔵などの史跡も多い。