野田の玉川は、日本六玉川(井出、三島、野路、調布、高野、野田)のひとつ。

夕されば 潮風こして 陸奥の 野田の玉川 千鳥鳴くなり       新古今和歌集 能因法師

として詠まれた歌枕として名高い。

元禄2年(1689)5月、仙台を出立した松尾芭蕉は塩竈に着くとすぐに、野田の玉川、おもわく橋、浮島、末の松山、沖の石と、歌枕を求めて逍遥した。奥の細道には

「それより野田の玉川、沖の石をたずぬ、末の松山は寺を造りて末松山といふ。松の間々皆墓原に翼を交わし枝を連ぬる契りの松も、ついにかくのごときと悲しさもまさりて」

と記している。

奈良時代以降、国府の置かれた多賀城はみちのくの文化の中心であり、周辺には歌枕も多く散在している。その歌枕は江戸時代に入っても仙台藩により整備保存された。

歌枕には個人の風雅な歴史が込められている。芭蕉はその歴史の後を慕いながら奥の細道の旅を重ねた。「野田の玉川」は既にコンクリートの溝渠と化したが、約300年の昔、芭蕉はこの流れのほとりに佇み、末の松山への道を歩んでいった 。

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