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宮城県塩竃市一森山…塩竈神社境内

震災前取材

伊達家九代藩主、伊達周宗は幕府より蝦夷地警備を命じられた。この文化灯篭は、任務が無事遂行できたことを感謝し、文化6年(1809)に塩竈神社に寄進された。銅鉄合製の精巧な花鳥、動物をはめ込んだ大灯篭で、竿には由来記が刻銘されている。

この時代、たびたびロシア船が日本の近海に出没していた。文化元年(1804)には、ロシアのレザノフが、石巻の漂流船の乗組員を連れて日本との通商を求めて来 たが日本はこれを断った。ロシアはその報復として、文化4年(1807)には択捉島に侵攻して紗那会所を焼き払い、また、利尻島を襲って幕府の官船に火を放つ事件が起きた。こうした事態に対応するために、幕府は奥羽四藩に対して蝦夷地警備を命じた。

仙台藩は、蝦夷地択捉(えとろふ)、国後(くなしり)および箱館の警備を命じられ、仙台藩からは凡そ2000名が北海道に向かった。しかし、その後は新たな事態の展開もなかったので、全員帰藩したが、蝦夷地では26名の藩士が病死したという。

この文化灯篭は、幕府の命令を受けた蝦夷地鎮定は、当時の状況がいかに切迫したものだったのか、またいかに重要な任務だったかを物語っている。