スポンサーリンク

宮城県女川町江島字江島

震災前取材

栄存神社は、この島に流刑者として流された栄存法印を埋葬した跡に建てられたもので、栄存法印に関しては、次のように言い伝えられている。

昔、石巻の長禅寺に栄存法印という僧がいた。栄存は石巻の発展につとめ、栄存の石巻での名声は非常に高かった。ところが、この石巻を治めていた笹町新左衛門頼重は栄存の名声を妬んでいた。

栄存には楓という美しい姪がいたが、頼重はこの楓を側室にしようとしたが、楓自身も栄存もそれを拒んだ。これに腹をたてた頼重は、役人と結び町の者を脅し、栄存の罪状をでっちあげて連判で訴えさせた。

罪状はもちろん栄存の身に覚えのないことばかりで、中には姪の楓と通じていたなどまであった。栄存は無実であることを訴えたが、頼重は役人を抱きこんでいたため、とうとう江島に島流しにされた。

栄存が江島に流されると、祈祷し病を治したりと島人のために尽くし、島の者たちの信頼はあつかった。栄存は時々岩の上にすわり石巻の方向に印をむすんでいた。不思議なことに、そのたびに石巻には火事が起きた。

そんな栄存にも死期が訪れ、死に際して島人たちに、「死んだ後は鰹節を口にくわえさせ、石巻に向かい逆さまに埋めてほしい」 と言い残して死んだ。

島の者は、栄存法印を逆さに埋めるのはむごいように思えて、普通に埋めた。すると江島に疫病が流行りだして、島の者が次々と倒れていった。これは栄存法印のたたりだということで、栄存の遺言どおりに逆さに埋めた。するとその後は疫病はうそのようになくなった。

栄存法印が亡くなってから、笹町頼重は発狂し、「おのれ栄存め」と、何もないところで刀を振り回すようになり、息子や奥方を切り殺してしまい、自分もついにそのまま狂い死にしてしまった。

それから五十年後に松巌寺の住職が、栄存法印が無実であることを藩に訴えて、栄存法印の罪は赦され、栄存神社として今でも祀っているという。