宮城県女川町江島字江島

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女川町江島には、平泉藤原秀衡五男の、樋爪五郎季衡が落ち延びたとの伝説があり、五郎が上陸した「君が磯」、五郎が敵を見張った「物見岩」などの地名も残る。また、久須師神社は樋爪五郎を祀ったとされる。

文治5年(1189)年8月、頼朝は奥州藤原氏に対して征伐軍を派遣し、藤原泰衡は藤原国衡を大将軍に任命し、福島県伊達郡阿津賀志山に防御の陣を敷いた。平泉軍は三日間にわたって抗戦するが破れ、国衡は落ち延びる途中に討ち取られた。

鎌倉軍は藤原泰衡が陣を敷く仙台の榴ヶ岡にあったとされる鞭館に向けて進軍し、途中平泉軍の抵抗をことごとく破った。藤原泰衡はこの敗報を受けて陣を払い平泉に逃げ、さらに平泉に火を放ち 蝦夷の地に逃げようとした。

しかし逃亡の途中で、家臣の河田次郎の謀反により殺害され、その首は岩手県紫波郡日詰の陣ヶ岡に運ばれ晒された。

日詰は当時は樋爪と言い、樋爪氏は、奥州藤原氏初代清衡の子の清綱が、紫波郡一帯から産出される砂金を支配するため樋爪に居住したことに始まる。

樋爪一族は、平泉が灰燼に帰し、鎌倉の大軍が向かう中、俊衡、季衡ら一族は居館を焼いて逃走した。その後一族は頼朝に降伏し俊衡以外の一族は各地に流罪となった。俊衡は高齢であったが、法華経を唱え、申し開きをすることもなかったという。頼朝はこのような俊衡の姿に感じ入ったのか、俊衡には本領を安堵した。俊衡はその後樋爪の地に住み、泰衡の子の秀安を扶養したという。

樋爪五郎季衡に関しては、広範囲に伝承があり、岩手県日詰、宇都宮市、山形県高畠町に墓がある。

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