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宮城県南三陸町歌津字館浜

震災前取材

別名:歌津城、稲渕城

南三陸町歌津地区には、この臥牛ヶ館をはじめとし、六ヶ所の館跡が確認されている。

この館は、鎌倉初期の寛喜2年(1230)頃に、桃生郡深谷に下向した千葉氏の一族の馬籠氏によって築城されたと伝えられる。東西200m、南北500mの館崎全域がその城域であり、典型的な海洋を要害とした館である。

馬籠氏は、正応2年(1289)に馬籠遠野城に移住した千葉忠広を祖とし、津谷、山田、馬籠、小泉、歌津の五村を領したと云う。馬籠氏は気仙沼赤岩の熊谷氏と姻戚関係を結び歌津の地に勢力を張った。しかし、南北朝時代の建武3年(1336)、馬籠行胤は葛西高清に突如馬籠遠野城を攻撃される。迎え撃つ馬籠勢は五百騎足らずだったが、妹婿の熊谷直光は一族郎党1千騎を引きつれて馬籠氏を助けた。しかし、兵力には圧倒的な差があり、葛西軍の猛攻の前に馬籠氏の多くは討ち死にした。遠野城は落ちなかったが、一族の多くが討ち死にしたため、行胤の子胤宣は葛西氏に降伏した。

この「馬籠合戦」の後、馬籠には信夫佐藤氏の一族が進出し、馬籠千葉氏は葛西に臣従し、歌津の地頭としてこの地に移ったと伝えられる。永禄7年(1564)馬籠重胤は葛西氏に刃向かい討伐されたと伝えられるが、その後、葛西氏の意を受けて、葛西宗家に反抗的な葛西支族本良氏を葛西氏とともに挟撃し、葛西太守の信頼を取り戻したようだ。

馬籠氏は奥州仕置ののちに伊達氏に迎えられ、金山奉行として2百石を与えられて伊達家臣となり、子孫は伊達藩士として明治維新まで続いた。