宮城県南三陸町志津川下保呂毛

別名:旭館、志津川城

この館は、平泉の藤原氏が奥州を支配していた時期は、藤原秀衡の四男の本吉四郎冠者高衡の居館だったと伝えられている。本吉金をはじめとする諸物産を支配できる位置にあったと考えられる。

平泉の滅亡後は、葛西氏の一族の本吉氏が本吉郡南部を支配するところとなり、朝日館を居城とした。以来、天正18年(1590)豊臣秀吉の奥州仕置きにより葛西氏が滅亡するまで、葛西宗家をしのぐ勢いで、気仙高田をはじめとした本吉一帯に君臨した。

標高70mのこの城は、南、北、東の三方を切り立つ土壇で防備し、西方へ伸びる台地には深い空堀と土塁が築かれている。本郭の広さは、およそ80m四方で、本郭内には如何なる乾天にも枯れたことがないという井戸があった。

本吉氏は、天正2年(1574)葛西氏に対して叛乱を起し、またその翌年は、志津川湾から気仙沼湾、そして広田湾にわたる地域を舞台とし、本吉氏、熊谷氏、高田氏らの間で争乱が起き、また気仙沼長部氏とも軋轢を起した。ついで、天正5年(1577)にも叛乱を起し、本吉氏は徹底して葛西太守に対立を続けた。

その後、天正14年(1586)になると、本吉氏は歌津十二人衆との間に兵乱を起し、天正15年には気仙郡の浜田安房守と衝突した。

結果として、葛西氏は巨臣である本吉氏、浜田氏、富沢氏らの叛乱により、それらへの対応に忙殺され、家臣団をまとめきれないままに戦国時代の終末を迎え、新時代に乗り遅れて没落の運命をたどることになった。

葛西氏が没落した後、本吉氏は一揆勢の頭梁の一人として佐沼城に入り奮戦し、その後、桃生郡深谷において伊達氏の謀略により殺害されたとある。