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宮城県登米市東和町錦織山居沢

震災前取材

伊達の重臣大内氏の居城である。現在は錦織小学校になっており、地形から隣接するふれあいセンターの場所と合わせて館跡ではないかと推測できる。土塁らしき地形や、空掘らしい地形はあるが、後年変造されたものかどうかは定かではない。近世になってからの治世の居館だったと思われ、地形以外に大きな防御的構造は持っていなかったのかもしれない。

大内氏の祖先は百済国の聖明王の第二王子琳聖太子で、周防国大内村(山口県山口市大内)に居城していたという。その後大内氏は石橋氏の重臣として若狭国(福井県)小浜に居城していたが、応永12年(1405)、石橋氏が福島県安達郡に四本松城を築いたとき大内氏も小浜城を築いて居城した。

天正7年(1579)、石橋氏に代って安達郡の領主となった大内定綱は、伊達氏と、葦名・佐竹などの反伊達連合との挟間で揺れ動き、伊達氏と戦い、伊達政宗によって小手森城を撫で斬りにされている。

その後、人取橋の戦いの後定綱は伊達に帰服し、以降は政宗の忠実な一部将として行動した。天正17年(1589)の摺上原の合戦には策を献じ、自らも中軍左翼隊の将として奮戦し、須賀川城攻めには雨呼口の先手を勤めた。豊臣秀吉下での葛西大崎一揆の際の宮崎城の戦いでは、敵の勇者千葉弥平左衛門を十字槍で仕留める武功をあげた。その後も文禄の朝鮮の役、慶長の白石の役にも従軍して活躍した。

戦後、胆沢郡二十余郷を拝領して前沢に居していたが、正保元年(1644)前沢より西郡に移封された定綱の子の重綱は、伊達氏の一族に列せられ、千三百五十石余を知行し、宝林寺重願寺の移転、出雲神社の勧進、町裏安場堤防の築造、城下町の造成、家臣屋敷の移転等数々の事業を行い今日の西郡の基礎を造った。

元文5年(1740)、新たにこの館を築き移転した。館は標高148m、東西150m、南北69mの山城で、人々は御館館山と呼び、館に通じる坂道を御表坂、御裏坂と呼んでいた。明治維新に到るまで約130年間大内氏が居住した。