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宮城県登米市東和町米川字小山下

震災前取材

延暦16年(792)、坂上田村麻呂は桓武天皇の勅を奉じて征夷大将軍となった。清水の観音、奈良長谷の観音に戦勝を祈願しての帰り、一人の農夫が夢枕に現れ、はなむけとして一頭の馬を田村麻呂に献じて去った。その馬は瞬速百里の足の速い名馬で、田村麻呂は「郷黒」と命名した。この馬は田村麻呂を乗せて、その勲功は目覚しいものがあった。

蝦夷の平定が終わった大同2年(807)、田村麻呂は奥州に七観音を建立しようと、この地で上棟式を行った。式が終わると、田村麻呂の愛馬「郷黒」が忽然と倒れた。

田村麻呂はこれを大変悲しみ、これを懇ろに葬った。ところが「郷黒」を葬った場所が、毎夜異様な光を放つので奇異に思い掘り返して見ると、既に馬の屍はなく、代わりに一寸八分の金の千手観音が現れた。

そこで石函を造り、観音経三千三百三十三巻と仏像と一緒にこの地に安置したという。「郷黒」の体は、毎夜異光を放って奥州各地に四散したために、奥州によく名馬が産するようになったと伝えられる。

現在の奥の院の堂は、文永4年(1524)、葛西十四代の晴重によって建立された。また馬頭観音堂は天明6年(1786)に建築されたもので、堂の内外には江戸時代からの沢山の絵馬が奉納されている。