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宮城県石巻市北村高寺

震災前取材

別名:新城館、新庄城

言い伝えによると、この山は、坂上田村麻呂が蝦夷征伐の折に御馬を立てた場所という。大同年間(780~806)、涌谷の篦岳に住む大岳丸と、この地に住んでいた鬼神大納言の征討のために、ここに駒を停め、形成を展望した場所と伝えられる。後に新城を築き敵に備えたところから、新城館とも言われる。

また、一説には文禄年間(1592~96)、新庄次郎左衛門が移り住んだので、新庄城とも呼ばれる。

城館は切り立つ絶壁上に構えられ、東西約20m、南北100mの平場が館跡と思われる。さらに東にのびる東西70m、南北15mほど の平場と、南西部の窪地などから城郭が形成されていたと伝えられる。風土記には、高さ30丈余(約90m)、東西12間(約22m)、南北30間(約55m)とある。