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宮城県登米市迫町佐沼字内町

震災前取材

佐沼城北側の西館跡に、亘理氏の墓所がある。ここには、五代倫篤から始まり、十一代までが葬られている。

佐沼亘理氏の祖の亘理宗根は、伊達の三傑の一人茂庭綱元の四男で、母は、豊臣秀吉が綱元に与えたと云われる香の前である。

綱元が絶世の美女だったとされるこの香の前を秀吉から拝領したことで、綱元は伊達政宗の怒りをかい、一時伊達家を出奔した。その後綱元は伊達家に帰参するが、そのとき香の前を政宗に差し出したと云う。このような経緯もあり、亘理宗根は政宗の落胤であるとの説も根強くある。

亘理重宗の嫡男定宗が、「伊達」姓を与えられて涌谷伊達家を興すことになり、この亘理家の名跡を宗根が継ぐことになり、慶長11年(1606)、宗根は7歳にして亘理美濃守重宗の養嗣子となり高清水に移った。大坂夏の陣では、大野治長の武将の中川隼人の首を獲るなどの功をあげ、元和2年(1616)、亘理家を継いだ。 以降亘理家は、仙台藩伊達家の一家に列し、歴代の邑主は藩の要職を勤めると共に学問や芸術文化の発展に力をいれた。

宝暦6年(1757)亘理家五代倫篤が、5千石で高清水より佐沼に移封され、以後、明治維新に至る111年間、亘理氏が佐沼郷を治めた。戊辰戦争後、佐沼は宇都宮藩の取締地になった。