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宮城県登米市迫町佐沼字内町

震災前取材

佐沼城北側の西館跡に津田氏の墓所があり、ここには、初代景康、二代頼康、三代景康、四代春康、五代武康、六代廣康が葬られている。

津田景康(かげやす)、別名、湯目景康、幼名は知喜力丸。伊達政宗が家督を相続した時から、若き伊達の中核として活躍した。父は湯目重康で、湯目氏は大橋(南陽市)、長岡(南陽市)、筑茂(高畠町)、洲島(川西町)などに城館を構え、最上川、吉野川、和田川の合流する置賜盆地中央部に勢力を張っていたらしい。赤湯の旧名が湯野目であることから、赤湯由来の豪族とも考えられる。景康は、人取り橋合戦、摺上原合戦に功があり、葛西大崎一揆鎮圧で活躍、佐沼城主となった。

豊臣秀次事件の折には、秀吉に謁し政宗の叛意のないことを訴え秀吉の疑念を解いた。政宗はその忠誠に対して加領、さらに津田の原という地で秀吉の疑念を解いたところから、姓を「湯目」から「津田」と改め名乗らせたという。

その後も「文録の役」、「白石攻め」、「最上の役」、「大坂冬の陣」、「大坂夏の陣」にも活躍をし、伊達政宗の関わった戦のその殆どに参加し政宗を支えた。

天正19年(1591)葛西大崎一揆を平定した後、伊達政宗は景康を1千500石で佐沼城に移封した。慶長15年(1610)には、相馬氏に備えるため、亘理坂元に派遣されていたが、元和元年(1615)に佐沼城に戻った。

以後、七代定康に至る165年間にわたり佐沼郷を治めた。佐沼に落ち着いてからは、この地の治世に心を砕き、元和2年(1616)長沼土手の構築や新田開発に着手し、荒廃した村の復興を図り、以来、代々新田開発や民政に力をいれた。

津田氏は、歴代仙台伊達藩の要職を勤め、8千石まで加増されたが、寛文事件では、失脚した伊達兵部派に属していたため、4千石に知行を減らされた。しかしその後も仙台藩の重役としてあったが、宝暦の大飢饉の際の第七代千代藩主伊達重村のとき、藩財政への対応を巡り重臣間で争いになり津田氏は宝暦6年(1766)改易された。