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宮城県石巻市鋳銭場

震災前取材

江戸幕府は貨幣経済の急速な発展に対応するため、寛永13年(1636)寛永通宝の鋳造をはじめ、通貨の統一を図った。江戸時代の貨幣銭造は幕府が独占していたが、標準貨幣となる「寛永通宝」を増産するため、江戸時代初期に仙台藩も含めて全国8か所に鋳造を許した。

仙台藩では、はじめ栗原郡の三迫で作られていたが、享保13年(1728)には石巻に銭座が移された。石巻が選ばれたのは、河港で燃料、原料、そして製品の運送に便利だったからであろう。

石巻で鋳造した貨幣は一文銭で、当初は表に「寛永通宝」、裏に「仙」の一字をつけた青銅銭だった。天明4年(1784)鋳造の「仙台通宝」は鉄銭で質が悪く、全国的に悪銭として有名になった。

このあと寛永銭となり、幕末まで断続的に続けられ鋳銭場は周りに高い塀や竹矢来を組み、出入口は東側の一か所で、中に溶鉱炉、銭製品の各工場が立ち並び、常時200~300人が働いていたと伝えられている。