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地宮城県石巻市福字町

震災前取材

高さ約80mほどの八幡山に築かれた山城。

東、西、北の三方は断崖となり、南側は深い空堀が切られていたと云う。本郭は、南側の丘陵最高所で、直径30mほどの円形の平場で、同心円状に腰郭が巡る。北側に空堀を隔て、長径75mほどの楕円形の平場があり、ここが二の郭と推定されており、その周囲にも5段ほどの段築があるという。城域は東西約200m、南北約230mほどの規模を持つ、北上川の交通の要衝を押さえた山城である。

中世には、この地域の領主の山内首藤氏の支城で、記録には七尾城主首藤義通の弟で、山内左馬之介頼重が城主として伝えられる。主家の山内首藤氏は、大森城を本拠とし、石巻の葛西氏に対抗していたが、永正8年(1511)永正合戦で敗れ葛西氏の軍門に下った。しかし永禄8年、再び葛西氏に叛旗を翻したが、気仙郡の矢作氏の討伐を受け、主家の山内首藤氏は滅亡した。その後左馬之介頼重は葛西氏に仕えたという。

近世に入り、この地は仙台藩領となったが、天下への野望を持つ伊達政宗は、徳川と戦いに敗れた場合は、北上川下流域のこの城まで退き、この地で最後の決戦を行うことを考えていたとも伝えられる。