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宮城県石巻市相野谷字柿木前…源光寺

震災前取材

葛西氏は、文治5年(1189)、源頼朝による奥州合戦に従い、大功を立て奥州総奉行に任じられて以来、約400年間にわたりこの地方に君臨したが、天正18年(1590)、十七代晴信の時、豊臣秀吉の奥州仕置により滅亡した。

しかし、伊達政宗が名族葛西氏の名跡を惜しみ、晴信の弟の子重俊を起用して葛西氏を再興し、その子俊信は、寛永4年(1627)、旧領の桃生郡相野谷村に知行1千石を賜り、領主としてこの地を治めた。俊信以降を「後葛西氏」または「飯野川葛西氏」と呼ぶ。

源光寺は葛西氏の菩提寺で、二代重常が、代々の菩提を弔うために寛永12年(1635)開基建立した。霊屋には、初代俊信から七代清常までの墓があり、位牌堂には代々の位牌がおさめられている。

二代重常は飯野川の町づくりを行い、代々名君が続き善政をしき、百数十年の平和をもたらした。しかし安永2年(1773年)、葛西清興の代に、清興ら数十名の藩士が、伊達村好、伊達村富等伊達一門の助力を得て、現行の奉行の責任を追及して失脚させようとした(葛西川島事件)。しかしこれは失敗し、葛西清興等は知行は召上られこの地を去った。

位牌堂の一隅に立つ高野槙の大木は、俊信が参勤交代の際に江戸より持ち帰り植えたものと伝えられている。