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宮城県石巻市大森字町

震災前取材

小僧丸は伊達稙宗の次男で、大崎高兼の娘の梅香姫の婿養子になり、大崎義宣を名乗った。

当時、大崎氏には内乱が続き、大崎高兼の跡を継いだ義直は伊達稙宗の力を借りてこれをおさめた。しかしこの見返りとして、稙宗は義直に自分の次男を養嗣子として送り込んだ。これが大崎義宣である。稙宗には、14男7女という多くの息子、娘がいたが、それを使って近隣の諸大名との縁組を成立させ、巧みに勢力を拡大していた。

もちろん、大崎家中にはこの小僧丸の養子縁組をこころよく思わぬ者も多く、義理の兄弟にあたる名生の大崎義直と小僧丸は対立するようになった。

このような時、天文11年(1542)、小僧丸の父の伊達稙宗と兄の晴宗との間で天文の乱が起こり、その結果父の稙宗は失脚した。この天文の乱では、大崎義直は晴宗側に付き、小僧丸は後ろ盾を失い大崎氏内部で次第に孤立していった。

天文18年(1549)8月、大崎の地を台風が襲い、妻の梅香姫は倒れた家屋の下敷となり落命した。小僧丸はこれまでのいきさつから、これは台風に乗じた義直派の者の陰謀と疑い、葛西晴胤を頼って逃亡したが、この辻堂の地まで来たとき、大崎義直の追っ手に襲われ殺害された。25歳だったと云う。

大崎氏の家系では、

10代大崎高兼→11代義直→12代義宣→13代義隆
10代大崎高兼→11代義直→12代義隆

とする二つの説があり、このことが大崎家中の義直と義宣の対立を表しているのだろう。