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宮城県石巻市山下町…禅昌寺

震災前取材

石巻の禅昌寺には、蝦夷征伐の折、伊峙水門で戦死した将軍上毛野田道に関するものと伝えられる古碑が保管されている。享和元年(1800)に、禅昌寺の境内から発掘された古碑で、江戸時代後期、塩竃神社の神官だった藤塚式部が作ったものと言われている。

上毛野田道は、仁徳朝の武人で、仁徳53年(373)、朝鮮半島の新羅が朝貢を怠ったため、田道が兵を率い遣わされ新羅の兵を撃破した。このとき田道は、四つの村の住民を捕虜とし連れ帰ったと云う。

仁徳55年(375)、奥羽で蝦夷が反乱を起すと田道が遣わされたが、破れ伊峙水門(いしのみと)で戦死した。後に蝦夷が田道の墓を暴くと、中から大蛇が現れ、次々と蝦夷を噛み殺したと云う。

田道将軍が戦死した伊峙水門は、石巻とする説もあり、また、その伝説は青森県や秋田県、千葉県と各所に存在する。