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宮城県登米市津山町横山字地志貝

震災前取材

小次郎は伊達政宗の実弟であるが、政宗が疱瘡を患い隻眼であったためか、母の義姫は弟の小次郎を溺愛していたという。義姫は小次郎を伊達輝宗の後継にしようと謀り、家督相続の争いに発展する恐れがあった。

しかし伊達輝宗はこの様な動きを牽制するためか、天正12年(1594)若くして隠居して、19歳の政宗に家督を譲る。その輝宗は翌年畠山義継に拉致され、政宗は畠山義継もろとも輝宗を殺してしまった。

このようなこともあってか、政宗と、母義姫、弟小次郎との間は良好とはいえず、小田原参陣を前にしての政宗の毒殺未遂事件を期に、後顧の憂いを絶つため小次郎に対し自害を命じ、7代に渡る勘当を申し渡した。このとき小次郎は22歳であったとも13歳であったとも言う。

小次郎の墓の近くには、殉死した守役の小原縫殿之助定綱の墓もある。

死後203年目の寛政5年(1793)、勘当状態が解かれ法要が営まれたという。