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宮城県登米市寺池字三日町

震災前取材

松尾芭蕉は、石巻から平泉に向かう途中、この寺池に一泊している。石巻からこの寺池までの旅の様子を、奥の細道の中で、次のように書いている。

漸(ようよう)まどしき小家に一夜をあかして、明れば又しらぬ道まよひ行。袖のわたり、尾ぶちの牧、まのゝ萱はらなどよそめにみて、遥なる堤を行。心細き長沼にそふて、戸伊摩と云所に一宿して、平泉に到る。其間廿余里ほどゝおぼゆ。

 旅の一つの目的であった松島を過ぎて、次の大きな目的地の平泉へとさらに深く陸奥に分け入ったその心細さを、北上川の山間を通る街道に託し描いている。ここで云う「戸伊摩」が、登米の寺池で、当時寺池は、伊達の一門の、伊達式部二万一千石の城下町だった。

寺池での芭蕉の宿泊地は特定されていない。この碑文は、川東碧梧桐の六朝風の書で、もと検断屋敷跡に建てられた物だが、堤防工事に伴いこの地に移されたもの。碧梧桐は明治39年(1906)、「三千里」の旅の途中この地の門人の許を訪れ10日ほどこの地に滞在した。

寺池は、かつては葛西氏の本居城が置かれ、豊臣秀吉によって滅ぼされるまで、三代55年の葛西氏の支配が続いた。一時、秀吉の家臣の木村吉清が支配したが、葛西大崎一揆に攻められ、その後は伊達政宗に与えられて近世を迎えた。

政宗は、後に伊達一門に列せられた白石宗直をこの地に配し、宗直はこの地の治世に心を砕き、北上川の改修と新田開発を行い、後に二万一千石をこの地に領した。登米伊達氏は、十三代260年にわたりこの地を領し、明治維新に至る。明治に入っても水沢県庁が置かれるなど、寺池はこの地方の中心地として栄えた。