宮城県登米市東和町米川字小山下…華足寺境内

及川甚三郎は、通称「及甚」と呼ばれた、現在の登米市東和町出身の実業家で、明治期に移住者を募りカナダに密航し、バンクーバー近くの無人島を開拓し、日本人の理想郷をつくった。甚三郎は「巨大な川を埋め尽くすほどに鮭が遡上してくる」という話を聞き、カナダへ渡航調査し、やがて彼の“王国”と呼べるほど多角化したユニークな日系人のコミュニティーを創り出した。必要な人材を確保するため、及川が取り組んだ無謀とも言える密航計画は、「水安丸事件」としてカナダ日系人史に深い足跡を残している。「島主として王者の観ある」男だったと伝えられ、新田次郎著「密航船水安丸」のモデルとなった。

甚三郎は、安政元年(1854)鱒渕に生まれた。その天資は英邁剛毅で、若い頃より地域産業の振興を策し、公共事業のためには家事を忘れて率先して行動することが常であ った。明治13年(1880)、野蒜築港事業が起きると、これに必要な木炭の供給に奔走して、この地方の木炭を野蒜に出荷し、この地の木炭の販路を拡大し声価を高めた。また鱒渕製氷会社を設立し、山地渓流を利用して天然氷を貯蔵して一般の便益を計った。更に地方産業の改良を志し、信州方面を視察し、良種の桑苗を購入し無償で配布、桑園改善の実を挙げ明治19年(1885)鱒渕製糸場を創設し、また仙台に生糸荷造所を置き、横浜市場と直接取引を行い、この地の蚕業界に大きな利益をもたらした。

甚三郎はあるとき、カナダ在住者が書いた手紙を見せられた。そこには、膨大な数の鮭が遡上してくる、フレーザー河という大河のことが書かれており、シロザケなど、鮭の種類によっては捨て値で取引されており、加工の過程で魚卵はどんどん河に捨てられてしまうという。この『鮭の大群』の話は、すでに40代になっていた及川の冒険心と起業家魂を一挙に刺激した。

明治30年(1896)、甚三郎はカナダに渡り缶詰工場を訪れ、鮭の卵が確かに海に投げ捨てられているのを見て、自分でも実際に漁をして調査した。禁漁期には製材所などで働きながら、バンクーバー周辺で一年を過ごした。そして、「心が通いやすく、言葉も通じる同郷人を呼び寄せて協力し合えば、日本人もカナダで成功できる」という確信を得た。

甚三郎は、日系漁民が集団で入植できる場所を探し、フレーザー河の中に浮かぶ、ライオン島とドン島と呼ばれていた中州に目を付けた。甚三郎はコットンツリーの林を切り開き、丸太小屋を建て、5艘の船を入手、宮城県出身者8人を雇って漁業を始めた。この8人の中には誰も漁業経験者はおらず、半分は泳ぐこともできなかった。甚三郎はこの人々に漁船や漁網のあやつり方を教え、塩鮭の生産、鮭卵の加工を始めた。当時、鉄道建設や山奥の山林伐採現場には多くの日系人が働いており、及川の塩鮭はその人々を大いに喜ばせた。

ライオン島やドン島は、フレーザー河が運んでくる肥沃な土地だったが、河の増水でしばしば冠水した。甚三郎は島の周囲に堤防を築き農地を調え、大根やゴボウなどを栽培し漬け物を作り、ついには精米所まで設けて、各地へ品物を送り出し始めた。やがて塩鮭は日本へも輸出され、甚三郎は大成功をおさめ、桟橋には「及川組」と呼ばれる漁船がずらりと並ぶようになった。

事業が拡大してくると、気心の知れた同郷人を呼び寄せたいという望みが大きくなっていった。当時、宮城県を中心にした東北地方は、洪水や地震、台風などの被害に連続して襲われ、日露戦争後の不況の波にも飲み込まれ、困窮にあえいでいた。甚三郎は、「飢えに苦しむ同郷人をカナダへ」との思いを実行に移した。

当時、日本はカナダ、アメリカへの移民禁止通達を出しており、カナダ側もアジア人の受け入れは規制していた。公式の旅券が手に入らないならばと考えた甚三郎の計画は乱暴なもので「難破船を装って密航する」というものだった。それでも飢饉に直面していた人々は、及川の説得に応じた。

明治40年(1906)、83人の出稼ぎ農民を乗せた、たった200トンの機帆船水安丸は、宮城県を出帆し、およそ50日がかりでバンクーバー島に入港した。闇に紛れて40人ほどの人を上陸させたが、海軍基地の近くだったために、あえなく逮捕されてしまった。甚三郎は日本領事館に援助を請い、鉄道建設の人夫不足に目をつけて、カナダ政府と交渉を行った。鉄道の建設現場で一時働くことを条件に、『密航者たち』の収監と強制送還を免れさせ、カナダへの上陸を許可させた。甚三郎は水安丸に自らも乗り込んで太平洋を渡っており、カナダ政府や日本領事館との交渉、そして裁判その他にかかった費用も全額自分で支払ったと云う。

入国条件の一年の鉄道建設現場での労働を終え、水安丸で渡航した人々は、ドン島、ライオン島で暮らし始めた。最盛期には両島に100人以上の人々が暮らしていたと推定される。事業の拡大にともない、島の周辺にも日系コミュニティーは広がっていった。造船所、缶詰工場、製材所などが建ち並び、島の道路はぬかるまないように板を敷いて整備され、日本からやってきた貨物船が直接接岸できる船橋も造られていた。米や味噌、醤油などはもちろん、さまざまな雑貨まで輸入されており、日本となんら変わらない暮らしを送ることができたようだ。一方、生活が安定するにつれ、キリスト教会に通うものも現れ、島の人々は独自のライフスタイルを築きはじめていた。

10年後の大正6年(1917)、甚三郎は突然日本へ帰国してしまう。溺愛していた当時10歳の子供がフレーザー河で溺死したことをきっかけに、事業意欲を失ったからとも云われている。カリスマ的な指導者を失った島のコミュニティーは急速に衰退し、第二次大戦の開戦とともに起こった日系人の強制移動によって、その終焉を迎えた。

その後、かつての繁栄の島は、1947年のフレーザー河の大増水の際に全島冠水し、以来無人島となっている。甚三郎は、故郷の米川村に帰ったのちも、農地の開墾などに尽力し、昭和2年(1929)、76歳で波乱に満ちた生涯を閉じた。

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