宮城県登米市登米町寺池字桜小路

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別名:登米要害、臥牛城

文治5年(1189)の奥州合戦により奥州藤原氏が滅亡すると、この地一帯はその武功により小野寺氏が所領とした。寺池城の築城は、この小野寺氏によるものと思われるが、詳細は定かではない。南北朝期になり、鎌倉期より奥州惣奉行として大きな影響力をもっていた石巻葛西氏に従うようになり、葛西氏がこの地に本格的に進出してからは、小野寺氏は一関に移ったとされる。

南北朝時代には、石巻葛西氏は陸奥国司北畠顕家率いる奥州勢の主力として南朝方で活躍した。しかし南朝方の衰退とともに惣領権は寺池葛西氏に移ったようだ。

葛西氏は秀吉の小田原北条氏征伐に参陣しなかっため、同じく奥州の名族である大崎氏とともに所領を没収される。その後、奥州仕置により秀吉の代官として派遣された木村吉清の所轄となるが、直後に起こった葛西・大崎一揆により失脚し、以後、伊達氏の所領となる。

慶長9年(1604)、伊達政宗の家臣の白石宗直が移り修築整備され、伊達の21要害の内の一つとして重きをなす。白石氏は天和2年(1682)、伊達姓を賜り、以後は登米伊達家の居所として明治に至り廃城となった。

城は梯郭式の平山城で、標高73mの舌状台地の尾根上に郭を配している。城の東辺は河川の浸食による急崖で、西辺部は急斜面で沢に面している。北は西辺の沢奥部に東辺から入り込む小さな谷が連続して狭い鞍部となり、背後の丘陵と区画されている。

城の大手口は南側にあり、現在登米懐古館がある位置が三の丸、裁判所のある平場が二の丸と思われ、それぞれの平場は土塁、切岸で区画されていたようだ。二の丸北側に本丸部と思われる平場があるが、 現在は畑になっている。

東側、南側には水堀があり、また西側の現在駐車場の位置は大きい沼であったらしく、その隣の敷地には古寺があったことから、「寺池」という地名が生じたといわれる。

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