スポンサーリンク

宮城県登米市津山町柳津字宮下

震災前取材

松尾芭蕉と曾良は石巻から平泉へ向かった。そのときとったルートは、現在の国道45号線を鹿又、飯野川、柳津と北上するルートだった。飯野川から柳津まで北上すると、左手には洋々とした大河の北上川が山間を流れている。しかし、松尾芭蕉がこの地を通った江戸時代の元禄期には、まったくその様子を異にしていたものと思われる。

かつての北上川の流路ははるか西側を流れ、迫川と合流し石巻湾に流れ出ていた。現在の国道45号線沿いに流れる新北上川の流路は、かつては二俣川の流路だった。慶長10年(1605)から、登米の領主の伊達相模宗直は、新田開発の必要性から、この北上川を現在の中田町上沼付近で遮断し、東へ湾曲させ、二俣川に合流させ、さらに柳津から新河道をつくり西に流し、迫川に合流させた。これによりかつての北上川の広大な流域が新田として開発された。

その後、伊達政宗は元和9年(1623)、川村孫兵衛に命じ、北上川の大改修工事を行わせた。孫兵衛は、柳津から北上川本流を西に流したことで流路が細くなった二俣川の流路を、柳津付近で遮断し、江合川と迫川を合流させ、北上川、迫川、江合川の三河川を一本化し、水害防止、かんがい用水の確保などとともに、舟運路としての北上川の機能を飛躍的に高めた。これにより河口石巻は、江戸廻米の一大集積地となり、奥州の中心的な港として栄えた。またこの改修工事により、仙台藩は三十万石以上の増収があり、仙台藩の実高は百万石を越えていたともいわれる。

明治になると、洪水防止のため、一旦遮断された北上川の柳津から飯野川間を新たに開削し、追波川の流路を使って追波湾に流す工事を行った。この工事は明治44年(1911)から昭和9年(1934)まで22年をかけて行われ、これに伴いそれまでの流路は旧北上川と呼ばれるようになった。

このような北上川の改修の歴史の中で、松尾芭蕉が通った時期のこのルートは、北上川(二俣川)は流れておらず、かつての山間の河道に取り残された沼や湿地、葦や萱が生い茂る場所だったようだ。