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宮城県栗原市若柳字上畑岡敷味

震災前取材

伊豆沼は、縄文時代初期には海の入り江だった。現在のような地形になってからも低湿地帯として残り、伊豆沼、長沼、内沼などを含んだ、一大湖沼地帯だった。

伊豆沼は、古くは大沼と呼ばれ、周囲が約29km、面積は4.2平方kmで、藩政時代初期までは野谷地として放置されていた。

伊達政宗、忠宗の時代になり、米の増産を図るために、荒地や谷地の新田としての開拓が盛んになった。特に、忠宗の時代には、武士や農民の次男、三男のための対策もあり、開墾が盛んに行われた。

寛永14年(1637)6月に大水害があり、その被害は仙台領全体に及んだ。仙台藩は幕府から銀5000貫を借り受け、水害の復旧とあわせ新田の開墾を進め、伊豆沼周辺も、この頃から干拓が盛んに行われるようになった。

次第に水田は広がっていったが、元来、自然の遊水池的な役割を持っていた伊豆沼周辺は、水害との戦いに明け暮れ、堤防をつくり、水路を掘り、水門を設け、やっと一応の安定した米の生産が行われるようになった。

昭和に入ってからも、水害対策と、干拓は紆余曲折しながら進められたが、昭和42年に伊豆沼は国の天然記念物に指定され、昭和60年にはラムサール条約の 登録地として指定され、自然保護に重点が置かれ始めているが、伊豆沼は地域住民の生活に直接関わっていることもあり、まだ多くの課題を有している。