宮城県登米市迫町佐沼字西佐沼

 

創建は古く、天平2年(730)聖武天皇の時代と云う。

文治5年(1189)、源頼朝が平泉藤原氏を征討し、その戦勝の御礼に参詣し、葛西壱岐守に命じ北方村日向に勧請したと伝える。

その後、天正19年(1591)、豊臣秀吉の奥州仕置により、大崎氏、葛西氏は領地を没収され、旧家臣や領民たちは一揆を起こし抵抗した。秀吉は、伊達政宗に一揆を平定することを命じ、政宗は抵抗する諸城を落とし、この地の佐沼城を包囲した。

しかしこの地は沼が多く、佐沼城は迫川と沼地に囲まれた難攻不落の水城だった。万策尽きた政宗は、北方村の津島神社に戦勝を祈願したところ、忽然と白鷺の群れが飛来し沼の浅瀬に下り立った。伊達勢はこの浅瀬から佐沼城になだれ込みついに城は落城した。

一揆平定後、戦功によりこの地に封を得た津田氏は、北方村からこの地に遷座し、佐沼郷の総鎮守とした。その後、宝暦7年(1757)この地に亘理氏五代倫篤が高清水から移封して来たが、亘理氏からも篤い庇護を受け明治に至った。

社殿は明治45年(1912)の佐沼大火により消失し、現在の社殿は大正12年(1923)に再建されたもの。

かつては門前に市が立てられ、門前は近郷近在の産品の県北一の集散場として賑わった。特に旧六月祭りの3日間は、大道芸、出店、掛茶屋、見世物小屋が軒を連ね、呼び込みの声やお囃子がにぎやかで人波であふれた。人々は初穂、初鰹を供えんと、南部、気仙、三陸、東山からまで大挙参詣し、また漁民の参篭で拝殿はあふれかえった。帰りには、一食一年の疫病よけの霊験があるとし、佐沼名物の京都祇園坊コロ柿型の饅頭を買い求め、帰ったのちに知り合いに配り、軒下に吊るし悪魔払いとして信仰したと伝える。

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