宮城県登米市寺池字道場

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別名:寺池城

登米市寺池の南側、現在の保呂羽浄水場付近の台地一帯が城跡である。広大な山城だったと思われ、標高は104m、東西1km、南北2kmに及ぶ。築城時期、築城者などは不明であるが、前九年の役の折に、源頼義に随行してきた藤原姓の武将によって築城され、これが初代の登米氏となったと云う。それ以前は蝦夷の館であるチャシだったとも思われる。

文治5年(1189)の奥州合戦の功により、寺池一帯は小野寺道綱に与えられた。登米の新田には早い時期に小野寺庶流の小野寺重房などが下向し居を構えた。小野寺氏嫡流の小野寺道義は、嘉暦2年(1327)頃下野から寺池に下向し土着し、保呂羽に居館が置かれたと推測できる。

しかし、やはり奥州征伐で功のあった葛西氏もまた宮城県北部から岩手県南部にわたる広汎な領土を得て、奥州総奉行として奥州の支配にあたった。鎌倉期から南北朝期にかけて、この寺池の地には、葛西氏と小野寺氏の名前が並立して見られ、小野寺氏は葛西氏の代官的な立場だったのかもしれない。葛西氏がこの地に本格的に進出してからは、小野寺氏は一関に移ったとされる。

南北朝時代には、葛西氏は石巻葛西氏と寺池葛西氏とがあり、石巻葛西氏は陸奥国司北畠顕家率いる奥州勢の主力として南朝方で活躍した。しかし南朝方の衰退とともに惣領権は寺池葛西氏に移ったと思われる。

この頃から葛西氏は大崎氏と争うようになり、その紛争の接点は栗原郡であった。両氏は毎年のように戦いを展開することになるが、葛西氏は大崎氏に対するに、伊達氏と同盟を結ぶ戦略をとった。

しかしその後は大崎氏との争いだけではなく、一族間の対立も生じ始め、葛西氏は家臣の統制や領内の支配に苦しむことになる。また大崎氏と葛西氏との対立は、この後も天正時代にいたるまで止むことがなかった。

そして葛西氏は最後の当主の晴信の代になる。晴信は、永禄、元亀、天正と30年間にわたり葛西領内の争乱の鎮圧と、大崎、伊達、南部氏らの諸大名との合戦に明け暮れた。永禄7年(1564)には本吉郡の馬籠四郎兵衛が背き、天正2年(1574)には本吉郡の本吉大膳の乱が発生し、天正7年(1579)には、三の迫岩ヶ崎城主の富沢日向守が乱を起し、天正16年(1588)には浜田安房が乱を起すなど、玉突き状態のように領内に争乱が続いた。晴信はこれらの乱に適切に対処し鎮圧してきたが、結局、強力な大名領国制を確立することができず次第に弱体化し、そのまま豊臣秀吉の奥州仕置きを迎えた。

天正18年(1590)、小田原を降した豊臣秀吉は「仕置軍」を奥州に派遣した。これに対して葛西勢は桃生郡深谷の神取山、栗原郡森原山などに陣を構えて仕置軍を迎え撃った。しかし仕置軍の圧倒的な兵力には抗しきれず、本城の寺池城 (保呂羽城?)は包囲され落城、晴信は戦火のなかで自刃し大名家としての葛西氏は滅亡したと伝えられる。

その後、この地は伊達氏の支配するところとなったが、この地に入った白石宗直は保呂羽城を使うことはなく、その北側の支城の寺池城を治世の城と定め、保呂羽城はこの時期に廃城となったと思われる。

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