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宮城県気仙沼市本吉町津谷桜子…浄勝寺

震災前取材

浄勝寺は、源義経の忠臣としてその名が残る、佐藤継信、忠信の母の乙和御前が、建仁元年(1201)に建立したと伝えられる。

乙和御前は、平泉の藤原秀衡の妹で、現在の福島県の信夫の荘司、佐藤基治の室となり、佐藤継信、忠信はその子である。本吉は、平泉藤原氏の隆盛期には「本良金」を産出し、藤原氏はこの地方を重視し、秀衡の四男の本吉四郎高衡を置いていた。また、馬篭には佐藤基治の支配地があり、この地に一族を住まわせていた。

奥州合戦後、藤原氏は滅亡したが、佐藤一族は東北各地に隠れ住み、乙和御前も一族とともに馬篭に住まったと伝えられる。この浄勝寺には、佐藤継信、忠信の墓と伝えられる五輪塔があり、またその木像も伝えられている。

佐藤継信、忠信兄弟は、義経が頼朝の軍に合流した際に義経の軍に加わり、大いに功を挙げ剛勇を称えられた。兄継信は、屋島の合戦で平家が放った矢を義経の楯になり戦死したが、継信の死は源氏方を勝利に導くことになった。弟忠信は、義経が吉野に逃れた際、待ち伏せて僧兵と戦い、無事主従一行を脱出させたが、後に六條堀川の判官館に戻り、鎌倉方に攻められ自刃した。

その後、無事奥州に下った義経は、平泉に向かう途中、福島の信夫の荘の基治に継信、忠信の武勲を伝え、追悼の法要を営んだと言われる。