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宮城県気仙沼市魚町

震災前取材

浮身堂のある神明崎と柏崎に囲まれた気仙沼内湾に面する町は、藩政期から昭和にかけて「西風釜」(ならいがま)、また同じく魚町は「釜の前」と呼ばれていた。奥深い湾を埋め立て、町を造成し、埋め立てずに残された内湾は、波静かな良港として利用されてきた。そしてまたこの町は、出帆に適した北西風(ナライ)を集める「風待ち」の港だった。

この風待ちの港は、はじめ帆船による交易、大正期からは動力船による漁船漁業の進展の中で、「魚町」として大いに賑わい栄え、経済的な実力を蓄えた。

気仙沼は、大正4年(1915)、昭和4年(1929)の二度にわたり町の中心部を焼き尽くす大火に見舞われた。ほんの15年の間に二度にわたる大火にあいながら、この特徴ある町並みを形成しえたことは、当時の「魚町」が経済力のある町であったことを証明するものだろう。

この大火のために、現在残る建物の多くは、昭和4年以降の比較的新しい建物であるが、昭和初期、戦前のさまざまな近代的建築様式が入り混じって構成された。また、この魚町界隈は町割が長方形ではなく、平行四辺形や不整形な敷地となっており、その敷地に合わせて建物が建ち、しかも柱の断面や敷石を、敷地の角度に合わせて、わざわざ鋭角や鈍角に作っているものもある。

これらの建物群は、気仙地方の、世に知られた「気仙大工」や地元大工の伝統技術の粋と、東京から呼び寄せた大工によるモダンな感覚を取り混ぜた貴重なものとして残っている。

※現在、2011年の大震災により、魚町の建物のほとんどは失われた。