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宮城県気仙沼市松川

震災前取材

別名:赤岩館

源平合戦一の谷の合戦で平敦盛を討った熊谷次郎直実の子直家が、文治5年(1189)の奥州合戦の功により、本良庄の地頭職に補任され築城したものと伝えられる。熊谷氏は、赤岩城を中心に気仙沼地方に勢力を伸張し、やがて本吉郡北方に支配権を拡大した。

鍋越山(347m)から南に伸びる尾根の先端部にあり、尾根の先端部は独立丘状になっており、ほぼ四方を急斜面及び急崖に囲まれている。城の南側は急斜面で、その下は当時は一面の湿地帯だったと思われる。東側は急崖、西側、北側は急斜面になっている。

大手口は西側と思われ、山腹を縫うように上り、途中から空堀(切通し)を真っ直ぐ上ることになる。北側、南側には張り出した尾根があり、尾根上には郭があったと考えられる。

上りつめると小さな窪地があり、正面東側に三の郭、北側、南側の腰郭が配されており、この窪地は虎口と思われる。正面の三の郭から南に二の郭、本郭と続き、さらに最高部の本郭から南に下がり二段程の郭が形成されていたようだ。

本郭平場に段丘上の小さな高台があり、ここに祠とケヤキの古木がある。

熊谷氏は、この地に下向した熊谷直家から四代目の直光、五代目の直時の時には、一族を各地に配し着実に勢力を広げていた。建武2年(1335)、多賀城国府の北畠顕家は、後醍醐天皇の命を奉じて奥州兵を率いて西上の軍を起こした。この軍には南部、伊達、白河氏らとともに葛西清貞(石巻)、高清(寺池)も参加した。顕家軍は足利尊氏と戦ってこれを破り九州に追放して京都を回復した。

ところが戦後、高清は先に葛西に帰り、同じ南朝方の本吉郡馬篭氏を襲撃した。熊谷直時の母は馬籠氏の出であり、熊谷氏は一族を糾合し、全力を上げて馬籠氏を応援した。しかし衆寡敵せず、馬籠方は壊滅的敗北を喫した。熊谷勢の多くも討ち死にしたが、赤岩城に篭城し高清勢を迎え撃った。高清勢は赤岩城を包囲攻撃したが、難攻不落の赤岩城を落すことはできなかった。

しかしこの戦いの結果、本吉郡の多くは葛西高清が掌握することとなったが、熊谷直時、その子直明の時代はたびたび葛西の大軍と戦ってその勢に屈せず、そのまま領地を維持した。

その後、奥州は北朝方が勢力を拡大し、北畠顕家は多賀国府から伊達郡霊山に移り、再度の京都回復を図ったが敗北し、南朝方の石巻葛西氏も北朝方に屈し、葛西氏の惣領権も寺池葛西氏に移った。貞治2年(1363)にいたり、熊谷氏もついに葛西家に降りその支配下に入った。

熊谷氏は葛西氏の下でその重臣として活躍したが、天正18年(1590)、豊臣秀吉の「奥州仕置」により葛西氏は所領を没収され、熊谷氏も歴史の表舞台から消えることになった。

奥州熊谷氏は多岐にわたっており、奥州仕置ののちの大崎・葛西一揆に加担して仕置軍と戦って討ち死にした者、行方不明になった者などがおり、一族の多くは帰農したようだが、伊達氏の家臣になった者もいる。