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宮城県気仙沼市唐桑町宿浦

震災前取材

建保5年(1217)、鶴岡八幡宮の別当であった梶原専光坊僧正景實(梶原平三景時の兄)は、正治元年(1119)、源頼朝が没すると、これを追うかのような梶原景時一族の没落、又、和田、畠山氏が滅んで行くのを見て世を憂い鎌倉を離れ、蝦夷千島を目指して下り、その途中、唐桑の石浜に辿りつきそこを切り拓き住んだと云う。居宅の脇に一廟を建て、源頼朝、梶原景時、 梶原景季の御影を安置し、一族の冥福を祈り菩提を弔う為、梶原神社を崇め奉った。

建保7年(1219)、一族の梶原三郎兵衛尉景茂の子である第二代大和守景永は父の仇を討った後、景實僧正の後を慕ってこの地に至り景實の猶子となった。景永は神職となり、早馬大権現別当として早馬山頂に社殿を建立したという。

梶原景時は、源頼朝が挙兵し敗れ洞窟に隠れていたのを故意に見逃し、その後頼朝に仕え厚い信任を受けていた。しかし、頼朝の死後、景時は他の御家人の多くから反感を買った。正治元年(1199)、結城朝光と梶原景時は対立し、鎌倉の多くの御家人は結城朝光に加担し景時を弾劾した。

景時は一族を連れて、領地である相模国に下り、武田氏を将軍にしようとするも、その前に追討され討死した。一族のほとんどはこの時に討死したが、景時の次子、梶原景高の子景継は再び幕府に仕えた。また景時の三男の梶原景茂の子孫は室町時代には近畿、さらに阿波国、讃岐国へも梶原一族は広がっていった。

奥州の地にも梶原一族は逃れてきたらしく、この唐桑の他にも歌津にも梶原氏の伝承は残っている。