宮城県気仙沼市本町一丁目

 

観音寺は、奈良時代の元明天皇の時期に岩手県室根山麓に創建され、文治3年(1187)、気仙沼本町に移った。観音寺は、源義家と戦った安倍の貞任の家臣の金氏一族の菩提の寺であり、また源義経の恋人皆鶴姫の菩提寺で、義経の牌子が安置されている。

藩政期には、伊達政宗が元和4年(1618)に参詣以来、藩公の祈願、宿泊御成りの寺として御一門格を与えられ庇護を受けた仙台藩ゆかりの寺である。また明治期には、気仙沼小学校の前身である粧坂小学校がここに開かれた。

この寺には、源義経とその恋人、皆鶴姫の伝説が残る。

源義経は年少の頃、母常盤御前から離され京都の鞍馬山で少年時代をおくった。義経は、鞍馬別当鬼一法眼のもとで、文武を学んだ。鬼一法眼には皆鶴姫と言う娘がおり、二人はいつか恋仲になった。

鬼一法眼は、兵学奥書「六諂三略」を持っており、義経はそれを見ることを望んだがかなわなかった。義経は皆鶴姫に頼み、この兵法書を手に入れた。

その後、義経は姫との恋を捨て、青雲の志懐いて金売吉次につれられて、遠く奥州平泉の藤原秀衡のもとに身を寄せることになった。平泉で過ごしていた義経は、ある日皆鶴姫の霊夢を見た。それは、兵法書を持ち出した皆鶴姫が、父法眼の怒りに触れて、九十九里浜から器船(うつぼ船)に乗せられ流され、本吉のゆりあげ浜に打ち上げられたというものだった。

義経は驚き、馬を走らせ本吉のゆりあげ浜は何処かと探していると、現在の松岩母体田の海岸に人が集まっていた。見ると器船が打ち上げられ、その中で、無残にも耳、鼻をそがれた皆鶴姫が、非業の死をとげていた。その亡骸の傍らに、義経がかつて姫に与えた、行基菩薩作の観音像があった。義経は里人達の手をかり、母体田の仏磯で姫を火葬に付し、姫の守り観音を観音寺に納め皆鶴姫の菩提を弔ったという。

現在、観音寺には、このとき皆鶴姫を乗せて浜に打ち上げられたという器船の舟材と、義経が使用していた笈が残され、また境内には「弁慶けさがけの石」が残る。

コメントを残す

メールアドレスが公開されることはありません。 * が付いている欄は必須項目です