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宮城県気仙沼市唐桑町字中

震災前取材

巨釜半造は、気仙沼湾の東に突出する唐桑半島の東海岸に位置している北上山地基底の石灰岩層の海岸で、三陸特有のいわゆるリアス式の屈曲の多い海岸線を形成している。この一帯は海水の澄明さと男性的な太平洋の勝れた海洋美とが加わって、すばらしい景観を呈している。

前田浜の湾入部を境として、北を巨釜、南を半造とよんでいる。前田浜から眺めると、あたかも大きな釜の中で湯が煮えたぎっているように見えることから、巨釜と呼ばれるようになったといわれる。また半造は、巨釜の対岸にあり、半分の釜に見えることからその名が付けられたとも言われている。

唐桑の地は、前九年の役に関わる伝承が多く伝わり、この巨釜半造にも「八幡岩」「貞任岩」の名称が残る。八幡岩には八幡太郎義家の伝説があり、貞任岩には安倍貞任が隠れたという洞窟があるという。

康平5年(1062)、鎮守府将軍源頼義、義家親子の朝廷軍は、出羽の豪族の清原氏の援軍を受けて奥六郡の長、安倍貞任の拠点小松の柵、衣川の柵を攻撃した。大軍団の前に柵は次々と打破られ、さすがの勇猛な蝦夷軍団も退却を余儀なくされ、安倍の将兵達は陸奥の山野に身を隠す事になった。

此の時、衣川から見て東の海道の浜里である唐桑は奇岩怪石の連なる恰好の隠栖地であり、川崎の柵(岩手県東磐井郡川崎村)や、黄海の柵(岩手県東磐井郡藤沢町)から退散してきた兵員達は山海の産物に恵まれ、風光明媚な此の唐桑の地を安住の場所と定め身を潜めたと言われる。