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宮城県加美町北町3番

 

暦応2年(1339)、斯波家兼が奥州探題として下向し築城したとされる。大崎氏は本拠城を何度か移しており、名生城(みょうう)、小野城(この)、岩手沢城(いわてさわ:後の岩出山)、中新田城(なかにいだ)など、歴代の当主が転々と居城を替えた。詳細については記録が少なく定かではない。

東西約230m、南北約250mの大きさの平城で、主郭は東西約135m、南北約120mであったという。周囲を推定20~25m幅の水堀が取り巻いており。東に向かって二の郭、二の構、三の構と続いていたとされる。主郭部西側には乾の丸が置かれ、現在斯波家兼像が建っている付近がその跡とみられる。城跡は現在その大部分が市街地となっており、ほとんどは破壊されている。

十三代大崎義隆は中新田城を本拠城としていたが、途中名生城に移り、この城には家臣の南条下総守隆信が城代として居城した。天正16年(1588)、大崎義隆の稚児小姓の新井田刑部と伊場野惣八郎が寵を争い、新井田刑部が大崎義隆を新井田城に軟禁したことから、家臣を二分しての争乱に発展した。そしてこの争いは、岩手沢の氏家氏が、伊達政宗に救援を求めたことから、伊達氏と大崎氏の争いに発展し大崎合戦が起こった。

伊達勢は南条隆信が篭る中新田城を攻めたが、頑強な抵抗に会い、一時は中新田城を落城寸前まで追いつめながら、伊達勢には部将間の対立があり、結局大雪により伊達軍は敗退し、泉田安芸重光と長江月鑑斎勝景は捕虜になった。

その後、大崎氏は天正18年(1590)豊臣秀吉の小田原攻めに参陣せず、所領を没収され滅亡する。

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