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宮城県加美町柳沢字桧葉野屋敷

震災前取材

浜田景隆は伊達政宗に仕え、人取橋、摺上原の合戦など各地を転戦し、伊達家の智将としてその名をとどろかしていた。天正19年(1591)、大崎一揆鎮圧のため、伊達政宗はその軍勢1万人余りを率い、宮崎城に立て篭もる笠原党を攻めた。2日間の激戦の末に宮崎城は落城した。

しかしこの戦いで、浜田景隆は、城中からの鉄砲で討ち死にした。景隆の遺体は、その遺言により甲冑を着けたたまま、城の方向へ向かって立った姿で埋葬された。38歳であったという。

このとき着用していた血染めの鎧下着は、現在も仙台市博物館に保管されている。またこの墓碑は、明和8年(1771)、景隆の子孫で武芸家の浜田市郎兵衛武次により再建されたもの。