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宮城県加美町宮崎字麓一番

 

宮崎城は笠原重広によって築かれたと伝えられる。重広は延元2年(1337)に奥州に入り、初めは志田郡師山城に居したが、同4年にこの地に山城を築きそこに拠った。また重広は城域に熊野神社を移し、その居城から見渡す一帯が宮の崎であることから宮崎と呼び、城も宮崎城と名づけたと伝える。自然の要害の地で、大崎氏の居城である中新田城、名生城と共に、大崎領の三大名城のひとつに数えられた。以来、笠原氏は2百有余年にわたってこの地方を支配し、加美郡の惣領であった。

笠原氏は奥州探題職を長く世襲した大崎氏に属して、その興亡をともにした。笠原一族の戦場における精強ぶりは、大崎家中笠原党として世に知られている。笠原氏は、笠原重広をもって祖とし、遠祖は清和源氏木曽義仲に遡ると伝える。

笠原氏は大崎氏の中で主流派として常にあった。しかし、天正18年(1590)、豊臣秀吉の小田原征伐後の奥州仕置きで、大崎氏の領地は没収され大崎氏は滅亡し、大崎領は豊臣秀吉の家臣の木村氏に与えられた。しかし木村氏の暴政に対する不満が大崎一揆の蜂起につながり、天正19年(1591)、旧城主笠原民部を大将に、笠原党3千人余りが立て篭もり、伊達政宗の軍勢1万人余りと戦った。

この戦いで、伊達家で猛将として知られ、良きライバル同士だった原田宗時と後藤信康は常に先陣を争い、この時も信康が夜中にこっそり抜け出して本丸に忍び込んだところ、「えらい早駆けじゃのう」という声がすると思ったら、すでに宗時も城内に忍び込んでいたという逸話が残る。

2日間の激闘の末、ついに宮崎城は落城した。しかし伊達勢の被害も大きく、人取橋、摺上原の合戦以来の智将といわれた浜田伊豆を始め、20名程の武将が戦死したほか、足軽100人余りが討ち死にした。笠原勢も落城の時に捕虜となった者200人余りは、翌日、城の北側の沢で斬首されたと伝えられている。

宮崎城落城後、笠原父子は数人の家来とともに秋田仙北に隠れ住み、のち山形の村山に至って楯岡城主本庄氏に仕え、名を笠原織部と改めたという。

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